

「甲州きいろ香(か)」は1000年の眠りから解き放たれた香りをもった、いままでと次元の異なる「甲州ワイン」である。その創出は白ワインのアロマ研究に関して世界的に知られるボルドー第二大学
醸造学部 デュブルデュー研究室に在室し、現在リサーチ・エンジニアとして活躍する富永 敬俊(たかとし)博士のサポートがあってこそのものである。
メルシャン勝沼ワイナリーでは、富永博士の書籍「きいろの香り」に大きなヒントを得て研究に取り組み、新たな「甲州ワイン」の特徴となる香り成分を発見した。その香りの測定法から最大限にその香りを発現するための醸造のあり方などを当社、酒類研究所の小林弘憲に伝授した(2004年11月歳時記参照)のが富永博士であるが、今回の歳時記では氏にスポットをあて研究の軌跡や成果、「甲州きいろ香(か)」にまつわるエピソードをお聞きした。
「白ワインの魔術師」デュブルデュー研究室の一員に。
 『私がボルドー第二大学醸造学部(当時は研究所)に入ったのは1991年の秋。「ワインの研究をしたい」という思いから渡仏したわけですが、同じワインの研究でもむしろ赤ワインに興味がありました。熟成という神秘に魅せられていたからです。その反面、それまで所属していた大学研究所での経験を活かして、生化学的な、酵素学的な仕事もしてみたいとも考えていました。当時の醸造研究所で生化学的な仕事が叶えられる研究室はひとつしかなく、それが現在私が籍を置く、ヴィクトール・スガレン・ボルドー第二大学醸造学部
教授ドゥニ・デュブルデュー博士が率いるラボでした。醸造や栽培学の奇才で知られる彼の研究活動は多方面にわたっていますが、最近の評価は主に、白ワインの醸造で特にソーヴィニヨン・ブランの研究に対して贈られています。彼の専門のひとつに「ワインの香り」があり、ソーヴィニヨン・ブランの研究でワインにおける「フレーバー・バイオケミストリー」という新しい分野を築き、これを確立しました。私はそんな彼の元で、博士課程に入学してから一貫してソーヴィニヨン・ブランの香りの研究をしてきたわけです。』
果汁は、香るものと香らないものとに分けられる
『白ワイン用ぶどう品種には「アロマティック(フローラル)品種」と「ノンアロマティック(ノンフローラル)品種」という分類の方法があります。アロマティック品種の果汁はその名前が示すように発酵前にある種の香りをもち、その香りは発酵後に果汁がワインに変化した後も同様に見い出されます。つまり発酵によってあまり影響を受けない。果汁中に見出される香りが、そのままそのワインの香りとなります。これに対してノンアロマティック品種では、果汁は青臭い香りはあるもののそれ以外は無臭に近く、しかし発酵によってまるで爆発でもしたように、その品種の特徴である香りを持つに至ります。前者に属する代表的なぶどう品種はマスカットであり、ソーヴィニヨン・ブラン、セミヨンなどは後者に分けられます。ソーヴィニヨン・ブランというのはアロマが強いので、アロマティック品種と勘違いされがちなのですが、実際は違います。どのような物質があの品種特徴香をもたらしているのか、それは発酵という過程を経てどのように生まれてくるのか、その生成のメカニズムを解明するのが私の博士課程の研究テーマだったのです。』
悪戦苦闘の末に見えたソーヴィニヨン・ブランの香りの実態
 『いくつかの硫黄化合物(以下チオール化合物)がソーヴィニヨン・ブランの香りの特徴を担っているということを突きとめるまでに、実に6年もの歳月を要しました。これまではチオール化合物というと、卵が腐ったような臭いに例えられるように、マイナスのイメージがつきまとっていたのですが、最近の研究ではグレープフルーツやパイナップル、パパイヤなどのフルーツに含まれ、それぞれの香りに非常に貢献していることが分かってきました。あと忘れてはならないのが猫尿臭。これはソーヴィニヨン・ブランには欠かせない表現用語ですが、この臭いの素も実はチオール化合物なのです。臭い匂いのするチオール化合物が、ある葡萄の品種香を担っているということは当時の常識では考えられなかったことなのです。ソーヴィニヨン・ブラン
ワインの特徴香を持っていると考えられている一つのチオールとして、3-メルカプト ヘキサノールを研究の結果解明したのです。このチオールはグレープフルーツの香りを持っているのですが、実際グレープフルーツの中にも含まれています。これを私は香りの架け橋と呼んでいるのですが、チオール化合物に特別な精製法を見つけ、ソーヴィニヨン・ブラン
ワイン中から1グラムの10億分の1という、1ナノグラム単位での定量をすることに初めて成功しました。』
富士五湖の全量の水に対し、ワインボトル1本分しかとれない香り
『1ナノグラム。この超ミニマムなスケールを実感していただきたくて計算してみたら、富士五湖の全量の水に対して取り出せる香りの量はわずかワインのボトル1本分という少なさなんですね。ただしチオール化合物は微量でも香るという特徴がある。要は、今まで香りは確かに存在していたのだけれど実態が見えなかった。だから誰も定量することができなかったんですね。』
『あと、チオール化合物がどのようにワインの中に生成されてくるのか、そのメカニズムの解明も博士論文のテーマでした。研究を進めるにあたりカギとなったのが、世界的に著名なフランスの醸造学者で、エミール・ペイノーという博士が1980年に上梓された「ル・グー・デュ・ヴァン」(邦訳ではワインの味)という本です。この中に、ソーヴィニヨン・ブランの戻り香という記載があり、それはソーヴィニヨン・ブランの果粒をかじり、舌の上にその果汁を広げ、種、果皮を吐き出して数秒から数十秒すると口中にソーヴィニヨン・ブランの香りが爆発的に現れるというもの。この戻り香というのを捉えるにあたり、私はソーヴィニヨン・ブランの中には眠っている香りの物質があるのでは?という思いからそのメカニズムを研究しました。この仮説は的中し、実際にソーヴィニヨン・ブランの中にアロマ・プレカーサーという、眠っている状態の香りの物質があることを見つけたのです。この物質は発酵中の酵母によって分解され、香りに変わるということが解りました。こうしてソーヴィニヨン・ブランを例に、ノンアロマティック品種が発酵過程をへてどのように品種香が付与されるかというメカニズムを世界で初めて解明した、というのが私の博士論文における趣旨であり、いままでボルドーでやってきた私の仕事の大部分を占めています。』
いままで存在しなかった「甲州ワイン」の香り
 『現在、メルシャン勝沼ワイナリーのチーフ・ワインメーカーである味村さんや藤野さんとは日本にいた頃はワインを介した旧知の間柄でした。そんな縁から、2003年秋にメルシャン酒類研究所での試験醸造でいままでの「甲州ワイン」とはまったく違う香りのワインができたので分析を依頼したいと、果汁とワインのサンプルが私の元に届けられました。当時は忙しくてワインを利く暇もなく、スタッフを使いすぐに分析にまわしました。分析機にかけてからは結果が出るまで時間がかかるので、特に気にとめるでもなく画面をみたら、グレープフルーツなど熱帯系の果物の香りをもつ、チオール化合物のピークが非常に大きいのに気がついて色めきだちました。数値で表すと約2000ナノグラムほどあり、これはボルドーのソーヴィニヨン・ブランと比べても勝るとも劣らない凄い量です。トップクラスのソーヴィニヨン・ブラン
ワインで、しかも天候に恵まれた年で数値が3000ナノグラムくらいなものですから、日本特有の品種のワインではとんでもなく凄い値だったのです。』
『こうして「甲州ワイン」の中に、ソーヴィニヨン・ブランがもっているチオール化合物と同じものが存在することが初めて解ったわけですが、そのあとは芋蔓式で香りの実態像がみえてきました。また、どんな醸造法をすればこの香りが強く出てくるかも、ボルドーのソーヴィニヨン・ブランの香りに対する研究の実績から分かっていました。2004年の2月に1カ月半ほど、メルシャン(株)酒類研究所の小林さんが派遣されてきまして、彼にはチオール化合物の定量法と果汁の中にある、眠っている香りの定量法を伝授しました。それに加えて「甲州種」がもっているアロマを探索してみようと、ボルドー大学が持っている香りの分析における最高技術を駆使して「甲州ワイン」にメスを入れた。その結果、チオール化合物の他に、林檎のコンポートの香りをもつ物質やスモーキーな香りのフェノール化合物なども発見されました。』
生みの親の一人として「甲州きいろ香(か)」を利く
『トップノートは微細で、それでいながら力強い柑橘系の香り、特にグレープフルーツの香りが顕著です。いままでとは明らかに違った「甲州ワイン」の個性が見てとれますね。あと気に入っているのは洋梨の香り。フランスではグレープフルーツと並んで洋梨は高貴なフルーツといわれていて、その2つの香りが一度に楽しめる、上品な仕上がりになっていますね。しっかりとしたこの品種香は、「甲州ワイン」の新たな特徴香といえるでしょう。1000年の間、眠っていた香りをやっと目覚めさせてあげられた喜びは大きいですね。甲州種は香りがないと散々いわれつづけてきたけど、アイデンティティをもった日本のワインとして、「甲州ワイン」も、喜んでくれているのではないでしょうか。歳月を重ねさらに品質や技術を向上させれば、世界のワインと肩を並べられるかなという期待感はあります。』
「甲州きいろ香(か)」の名の由来について
 『渡仏してソーヴィニヨン・ブランに含まれるアロマの研究を手がけてから14年目を迎えました。幾多の困難が行く手を遮り、研究に行き詰まることもしばしばでした。そんな時に、私を救ってくれたもののひとつに飼っていた小鳥があげられます。「きいろ」という名前で、メーテルリンクの「青い鳥」のモデルになった鳥と同じ、仏語で「メザンジュ・ブルー」という種類の鳥です。「きいろ」は時としてソーヴィニヨン・ブランの香りを放っていたことには大いに勇気づけられたものです。今思えば不思議な因果でしたね。その詳細は愛鳥「きいろ」を追悼するために書いた「きいろの香り」に任せるとして、「甲州きいろ香(か)」の名は、新しい甲州ワインの誕生を記念して、「きいろの香り」に記された私のソーヴィニヨン・ブランに関する研究に敬意を払ってくださったメルシャン社の英断なのです。人と人、人と生き物のさまざまな縁があり、そこにワインや香りとのさまざまな出会いが重なって生まれた「甲州きいろ香(か)」ですが、それは赤い糸ならぬ「きいろの糸」が縁で結ばれた無二のワインともいえるものかもしれません。
富永博士の専門領域はソーヴィニヨン・ブランだが、ボルドーにおける赤ワイン用専用品種のカベルネ・ソーヴィニヨンやメルロー、そしてワインだけでなく樽からもたらされる香りについても射程距離に入っているという。我々は氏と手を携えて咲かせた「甲州ワイン」の新しい香りの世界をさらに実りあるものに拓いていくのが務めである。

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【富永 敬俊氏 プロフィール】 |
1955年
1992年
1998年
2000年
2001年 |
東京に生まれる。
ボルドー第二大学修士号(醸造・土壌学)。
ボルドー第二大学博士号(自然科学・醸造学)。
フランス・アカデミー・アモリムより「ソーヴィニヨン・ブランの特徴的な香りの物質の固定と
そのプレカーサーからの生成メカニズムの解明」によってグラン・プリを受賞。
フランス国立農業研究所およびボルドー第二大学醸造学部のリサーチ・エンジニアとして現在に至る。 |
「きいろの香り」
富永敬俊(著)
フレグランス・ジャーナル社刊 |
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